コラム

2015年2月26日(木)

イノベーションとは、「漫才のボケに対して、ノること」である

松波 晴人

先日、ある書店に入ってみたら、漫才についての書籍が目に留まったので購入して読んでみた。その書籍には、「漫才がどのようにできているのか」が分かりやすく解説してあり、その内容を読んだ私は、「これは、イノベーションのプロセスと共通点がある」ということに気づいたので、今回はこの漫才とイノベーションの関係について書きたいと思う。

漫才は、ご存知の通り、通常ボケとツッコミの2人が掛け合いをすることで成立する。ボケは常識とはズレたことを言う役であり、ツッコミはボケの発言が「ズレている」ことをすかさず指摘する役である。

まず気づいたのは、このボケの仕事である「ボケる」というは、我々の言う「リフレーム」と同じだな、ということである。我々は、「リフレーム」という言葉を以下のように定義している。

『ビジネスにおいてそれまで常識とされていた解釈やソリューションの枠組み(フレーム)を、新しい視点・発想で前向きに作り直すこと』

例えば、フットボールアワーというコンビの漫才には、こういうやり取りがあった。
後藤 「最近結婚したいと思ってね。早く結婚して、盛大な披露宴をあげたいと思ってね」
岩尾 「じゃあ君が披露宴するときは、僕が披露宴の司会やってあげよう」
後藤 「できるか、お前。披露宴の司会ってものすごく難しいんやぞ」
岩尾 「やったろう。文金高島田つけてやったろう」
後藤 「お前つけたらあかんねん」
(2002年、M-1グランプリより)

ここでは、ボケである岩尾が、和装の新婦が頭につける「文金高島田」を、披露宴の司会である男性がつける、という通常ではありえないことを言って「ボケる」から笑いがおきるわけである。前述のように、リフレームも「常識的な考え方とは違う解釈を提示する」という意味では、「ボケる」のと同じである。そして、ツッコミである後藤は、「それはありえない」と否定することで笑いを誘発させている。

私は、中国の北京に旅行をしたときに、ぜひとも「万里の長城」に行きたいと思い、観光する方法を検討した結果、日本人向けのオプショナルツアーに申し込むのではなく、現地の中国人が利用するバスツアーに参加することにした。日本人向けツアーよりも格安、ということもあったが、「現地の人たちの旅行」に参加したらどういうことになるだろう?」という興味の方が大きかった私は、料金を支払ってバスに乗り込んだ。バス車内の前方にはモニターが設置されていて、走行中にビデオが流れ始めた。そのビデオには、男性2人のみが登場し、しきりに2人で何か話をしている。残念ながら私は中国語が話せないので、会話の内容は全くわからない。ただただ、その2人の声のトーンを聴き、表情を見つめるしかなかった。そして気づいた。「これは漫才に相当するものだな」と。

なぜそれに気づいたかというと、左側にいる男性は常ににこやかにしゃべっているのに対して、右側の男性はしかめっ面をして左側の男性に向かって話していたからである。つまり、左がボケで右がツッコミではないか、と思ったのである。(後で調べたら、中国では「相声」と言われている芸でボケとツッコミもあり、日本の漫才と同様のものであった)先ほどのフットボールアワーの例もそうだが、漫才の中でツッコミはネガティブな発言をすることが多い。もともと、相手のボケに対して「それは違う」と言い続ける側であるから、否定的な発言をすることになるのは必然である。ただ、先ほど引用した漫才の中に、
岩尾 「僕が披露宴の司会やってあげよう」
後藤 「できるか、お前。披露宴の司会ってものすごく難しいんやぞ」
というやり取りがあるように、「ボケ・ツッコミになっていない会話の部分」でも、ツッコミの後藤は「相手の才能を疑う」趣旨の発言をする。つまり、中国の漫才でも小難しい表情をしていたように、ツッコミはそもそも否定的なことを言うキャラクターなのである。

ビジネスの会議においても、このようなことは起きていないだろうか?「会社の新しい方向性」「新しい施策」「新しい商品」について、会議で意見やアイディアを求めたとしよう。会議に参加した人たちは、「これまでと違う発想」を求められているわけで、一生懸命「ボケる」ことになる。「こういう方向性に進んでは…」「こういうやり方を新たに取り入れては…」中には「それはダメだろうな」という案もあれば、「それは面白いかも」という案もあるだろう。漫才であれば、「ボケ」たら「ツッコむ」のが当たり前である。漫才のように会議でもツッコむと、たとえば以下のようなやり取りになる。

会議のボケ 「ここはひとつ、●●という考え方を取り入れてやってみてはどうでしょうか?」
会議のツッコミ 「それはダメだよ。5年前にも似たようなことをやって失敗しているし」
このようなやり取りを繰り返し、会議で「ツッコむ」ことばかりしていると、そのうちに参加者は、「ボケ」なくなる。思い切って口にした案に、すかさずツッコまれたい人は誰もいないからである。

この時、重要なのは、すべての「ボケ」に対して的確に「ツッコむ」ことではないと考える。ここで必要なのは、参加者の「ボケ」に対して、「ノる」ことである。たとえば、こういった具合である。
会議のボケ 「ここはひとつ、●●という考え方を取り入れてやってみてはどうでしょうか?」
会議のノリ 「それ、いいな。5年前にチャレンジしたときは失敗したけど、今なら通用するかもしれないな」

もちろん、すべての発言に必ずしも「ノる」必要はない。ツッコむことがあっても構わない。しかし、みなさんの組織では、こういった会議において、どれだけ「ノる」ことがあるだろうか?

ツッコむのは、簡単である。どれほど画期的で妥当性の高いソリューション(=イノベーション)であれ、必ずツッコミどころがある。ウォークマンでさえ、「そんな音質の悪いもの、売れるのか?」と簡単にツッコむことができる。なぜなら、イノベーションは100点を120点にすることではなく、100点だった従来の枠組(例:音質)が80点になったとしても、新たな価値を生む枠組(例:屋外で音楽を楽しむ)を打ち立てるものだからである。

ツッコめるからと言って、なんでもかんでも「自分の常識」をもとにツッコんでいくことが習い性となると、いろいろとまずいことが起こる。シャーロック・ホームズが鋭い推理をもとに「事件の真相はこうだ!」という発言をしても、「お前にそんなことわかるんか?推理ってものすごく難しいんやぞ。んなわけないやろ」と、発言者の才能を疑いつつ、ツッコむようなことが起こってしまう。「常識的な考え方とは違う解釈を提示する」という意味では、シャーロック・ホームズも一生懸命「ボケ」ているのである。

行動観察研究所のワークショップルームの壁には、様々な「吹き出し」が用意してあって、そこには
「それ、えーな」「すごいやん」「むっちゃ、ええやん!」「やるぅ〜」「すげぇー」
といった「ボケに対してノる」言葉が多々貼られている。逆に、「ツッコむ」言葉は一切貼られていない。

もし、会議のゴールが、「自分の正しさ/すごさを誇示すること」であるのならば、すべてのボケに的確にツッコんでいけばいい。しかし、それを執拗に行うだけでは参加者は「自己効力感(自分は何事かを成し遂げる能力がある、という思い)」を失うだけである。会議のゴールが、「新しい戦略/顧客価値を生み出すこと」にあるのならば、
(Q1)まず、会議で「ボケる」ことが歓迎・推奨されるか?
(Q2)そして、「ボケ」に対して「ノる」ことがあるのかどうか?
これらの質問を自らに投げかけ、会議の主催者が上記の2点を促進し、できれば会議の前に宣言する必要がある、と私は思う。