コラム

2016年2月25日(木)

「知識」とは、言語化できるものを指すのか?

松波 晴人

私としては、久しぶりのコラムとなります。
コラムに書くことが少なくなっていた、というのとは逆で、気づきが多すぎてまとめきれなかった、というのが正直なところです。
膨大な気づきを整理していきますので、今後もぜひみなさんと共有させていただければ、と考えています。

さて、今回のテーマは「客観」と「主観」についてです。

みなさんは、以下の質問を投げかけられたら、どうお答えになりますか?

Q 「知識とは、言語化されるものを指す」(Yes/No)

たぶん、多くの人が「Yes」と答えるのではないでしょうか?
教科書などの書籍に書かれていることが「知識」であり、経験から学んだことであっても言語化できるものが「知識」である、と考えるのはごくごく自然なことだと思います。

しかし、私は最近「言語化できない知識」が存在すること、を明確に教えていただくことができました。しかもその「言語化できない知識」は、「言語化できる知識」よりも量がずっと多いこと、を知りました。
「言語化できない知識」と言われても、それがどういうものなのか、すぐには想像しにくいかもしれません。

「言語化できない知識」のわかりやすい例は、「この音楽はとても心地いい」「この絵はなんと美しいのだろう」「この料理は美味しい」といった知識です。
ある音楽や絵について、「これは素晴らしい/素晴らしくない」という評価はできますが、「それがなぜ素晴らしいのか?」は、ほとんどの場合、論理的には説明できません。
その音楽を作った作曲家や、その絵を描いた画家であっても、「なぜ素晴らしいのか」は論理的に説明できないかもしれません。

しかし、我々は日常生活において、この「言語化できない知識」を大いに使って生きています。
その方が賢いし、よい意思決定ができるからです。
その理由を分析的に説明できないとしても、自分の下した「素晴らしいかどうか」という評価をもとに、さらによい音楽や絵、そして料理に出会うことができます。

一方、仕事においてこの「言語化できない知識」を用いようとすると、どういうことが起こるでしょうか?
我々が「知識とは言語化できるもののことを指す」という勘違いをしてしまっていたように、「言語化できる知識」しか活用されないことが多いのではないでしょうか?

例えばあなたが会社の会議で
「私は今、こう感じています。だから、今後はこうしたらどうでしょうか?」
と発言すると、多くの場合、
「君の主観は聞いてない。もっとデータに基づいて、客観的に、そして論理的に話してくれないか」
と言われてしまわないでしょうか?

もちろん、これが「人間を月に送り込むアポロ計画」の議論であれば、必ず最後には客観的な検証が必要でしょう。
しかし、これが「お客さまへの新しい提供価値をどう創っていこうか?」という議論であれば、「客観的で論理的な議論」しか許されないと、「言語化できない知識」を用いることができなくなってしまいます。

例えば、我々は人の表情や立ち振る舞いから、その人がどう思っているのか、を類推する能力をもっています。
「口では喜びを表現しているけど、本当は嬉しくないんだろうな」とか、「厳しい言葉を使ってはいるけど、その人からの信頼を感じるな」といった具合に、我々は“音声テキスト”という「客観的で、誰もが共有できるデータ」だけで判断するのではなく、その人が伝えようとしている“思い”という「主観的だが、伝わってくること」を敏感に感じることができます。

行動観察は、まさにこの「言語化できない知識」を得るために実施している、ととらえることができます。
生活者の行動観察において、家庭の中で一緒に過ごさせていただくと、膨大な気づきが得られます。そして、重要な気づきは、「感じること」から得られます。“その場”にいることで感じること、たとえば「淡々とした愛想のないコミュニケーションの中に感じる強烈な愛情」、「楽しい会話の裏側に感じる緊張感」、これらは“場”に行かなければ得られない「言語化できない知識」です。

現場で行動観察した「優秀な営業担当者」も、お客さまの声のトーンや表情を敏感に読み取り、どうするべきかを決めてアクションをとっていました。
しかし、「論理的に説明できないことはやってはいけない」となってしまうと、営業マンはその有効な方法を駆使することができなくなってしまいます。
それは、“現場”で働く人が日々感じ取っている有用な「言語化できない知識」も同様です。

今回のテーマは「客観」と「主観」です、と最初に申し上げましたが、これはつまり「主観」というよりは「直観」の話なのかもしれません。
「論理的に説明はできないけれども、実際に取り入れるとうまくいく」ことは多々あります。
すなわち、直観で判断して素早く取り入れる、というのは、「言語化できない知識」を駆使してアクションをとっていく、ということを意味しています。
今の組織の意思決定においては、これが許されにくいため、せっかく持っている「言語化できない知識」が有効に活用されていないのではないでしょうか?

かのハイエクも、以下の言葉を残しています。
If we stopped doing everything for which we do not know the reason, or for which we cannot provide a justification...we would probably soon be dead.
(訳)
「理由のわからないこと」や「正当化できる根拠を提示できないこと」をすべてやめてしまったら、我々はすぐに死んでしまうだろう。
(Friedrich A. Hayek, The Fatal Conceit, 1988)

もちろん、「すべて直観に基づけばうまくいく」などと言うつもりはありません。
「いい加減な勘」というものももちろんあり、それに基づいて意思決定をすると失敗してしまうこともあるでしょう。
ただ、だからといって「(“場”にいる人が切実に感じとっている)有効な直観」もゴミ箱に捨ててしまうと、この変化の時代には機敏にそして効果的に動くことができません。
売れる音楽かどうか、論理的に客観データを用いて説明できなければ発表できない、というルールを守ればその会社はうまくいく、などということはありません。

「言語化できない知識」は全く使わない、という仕事の進め方は、「メジャーリーガーの送りバント」のように見えます。
「ホームランを狙うと三振が増えるから」とか「確実性が重要だから」といった理由で、ホームランを量産できる素質を持っている強打者にもバントを命じているのであれば、それはもはや悲劇というより喜劇です。
バントばかりさせられることで素質のある選手が自己効力感(自分が何事かを成し遂げることができるという思い)を失い、ホームランを打てない選手、そしていろんなことに「あきらめ」が先に来る選手にしてしまうのではなく、その人のもっている「言語化できない知識」を有効に活用して組織として大きなホームランを打てるようにできないでしょうか?

なぜなら、ビジネスにおけるホームランは、満塁ホームランの4点よりもずっと多くの点数が一気に入ると思うからです。